先日、久しぶりにライブを見に行きました。
自身のライブは今年(2017年)6月以来やってなくて、他人のライブを見に行くのもご無沙汰で。

いまのところ決まっているライブはなくて、たまにギター弾いたり、曲を作ったりはしているけれど、やっぱり現場に行かなきゃなって思った。

ライブハウスとか、ライブバーで毎日のように続いている演奏。テレビやラジオやネットとかメディアにはのらない数々の音楽。せまい世界と言われればそれまでかもしれないけど、そこには決して内輪盛り上がりではない情熱がある。なんてことをしみじみ感じながら、ライブを見ていました。

そして、自分も少し前はそこに身を置いていて、いろんな人や音楽に出会って、そうやってきていまの自分がいることを改めて感じた。

カーテンズの2人にも僕は多大なる影響を受けてきたように思う。プライベートでも色々と遊んだり、話したりしてくれる、とても好きな人達だ。
活動8年目になる彼らの音楽をずっと聞いてきた。
すっかり、いちファンだと思う。
この日も単純に演奏を見れて嬉しかった。新しい曲も素晴らしかったよ。
彼らが音楽を続けてくれていることに、いちいち感動していたのかな。なんにしても、演奏が聞けてよかった。

カーテンズのことばかり書いているけど、多久和さんの音楽も、とても沁みました。CD買ってかえって、このところよく聞いています。

来年は自分もまたライブをやっていきたいな。


最後にどうでもいいけど、こないだ「マルサの女」を見ていて、主演の宮本信子さんが多久和さんに見えて仕方なかった件。
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2017.11.18 / Top↑
タモリ倶楽部で見て以来、トリプルファイヤーが気になっています。



おもろいなぁ。
2017.11.17 / Top↑
読書感想文。

『死都日本』という小説を読みました。
ネタバレありです。ご注意を。

小松左京の「日本沈没」のような、所謂ディストピア小説。
600ページほどのボリュームですが、たぶんスルスルっと読めるタイプの本です。

1万年ほど前に九州の縄文人たちを滅亡させた“じょうご型カルデラ火山の破局的噴火”が描かれています。
“ディストピア”とは書きましたが、実際にこの噴火は1万年周期ぐらいで起きているもので、データ的にはこの先100年で1%の確率で起こる可能性があるとのこと。
まず、被害の試算がえげつない。
噴火から数分で鹿児島あたりの街がいくつかまるごと消滅。350万人が数十分の間に死亡する。
“火山の噴火”と聞いて、思い出されるのは最近では御嶽山や雲仙普賢岳、三宅島とか、そんな感じだったけど、この小説を読んでその感覚は吹き飛んだ。
ポンペイのヴェスヴィオ火山とか、日本の古事記などにある火山の描写とか、過去にあった文明を破壊したような伝説的な出来事も交えて、ここでは言及されている。
火山大国に生きているんだという事実と、忘れかけている自然への畏怖を思い起こさせてくれる作品。

被害の話に戻ると、まず直接的に噴火による爆発と溶岩でその周辺は壊滅する。そして、火砕流、土石流、火砕サージ、ラハール、最後に火山灰。
とりわけ、“地震で滅亡する国はいまだかつてないが、火山で国は滅亡しうる”という話は、“火山灰”が大きく影響してくる。
九州でこの噴火が起こった場合、日本国土で火山灰の影響を受けない地域はないに等しい。北海道と沖縄がマシなくらいだそう。
四国や関西では火山灰の重みにより、家屋が倒壊する。早急に屋根に積もる火山灰を下ろさなければならない。そして、火山灰は空を覆い、空前絶後の凶作を引き起こす。やがてそれは、世界的な食糧不足も招き、穀物は高騰し奪い合いがはじまる。
多くの日本国民が難民となり、日本の人口は2000万人ぐらいに激減する。さらに円が一夜のうちに暴落し、皆の預貯金は10分の1の価値に成り下がる。
などなど、絶望的な展望が次々と書かれている。

宮崎に住む火山学者・黒木とその友人の新聞記者・岩切の脱出劇を中心に、日本政府の対応、アメリカや周辺諸国の動向などを並行して、物語は進む。

小説の中の日本の対応は、“火山オタク”である学者・黒木の知恵もあり、これ以上ないくらいに成功を収めるのだけど、それは事前にこの噴火が起こったときのシミュレーションをしていたからだ。
実際、100年で1%の確率のこの災害に対して、火山学会かなんかが、政府に「ちょっとは対策しといた方がええんちゃう?」と申し出たことがあるらしいけど、政府の回答は「そんな起こるかわからんもんに予算は計上できない」ということだったそう。

2002年発表のこの小説ですが、火山で誘発される地震と津波のこととか、原発の話とか、考えてる人は考えてるんやな。やはり火山だらけのこの国に原発はヤバイなぁと改めて思った。

日本の政治の闇の部分とか、アメリカとの関係とか、中国との関係とか、その辺も結構突っ込んだ描写があって、とても興味深かった。

いつか起こるかもしれない災害。自分が生きているうちには起こらないかもしれないことかもしれないけど、起こった時にどれだけ落ち着いて行動できるやろかと思いながら読了しました。
2017.11.17 / Top↑
無知や若気の至りで誰かに言ってしまった言葉とか。
その人は憶えていないかもしれないけど、僕はよく思い出す。思い出す度に恥ずかしくてたまらなくなる。

ある1人の、僕より10歳ほど年下のミュージシャンの子がいる。知り合った当時、彼は16歳くらいで、その時から“プロ”を意識した音楽活動をしていた。
当時僕は26歳くらいの頭デッカチのパッパラパー(今もあんまり変わらんけど、あの時よりは成長したでしょうか・・)で、16歳の彼に歌詞のなんたるかとか、しょうもない講釈をたれていた。なんもわかってないくせにね。
「その歳じゃわからんかな~」とか、クソみたいなことを言っていた気がする。今考えると吐き気がするな。彼はそういうことを言った僕に対して、だまって聞いてくれていたけど、内心はカチンときていたように思う。

彼はピアノも歌も当時から凄かった。
僕は嫉妬していたんだろうな。ライブを始めたばかりの16歳の彼の粗探しばかりして、先輩ヅラして。思い出すと恥ずかしすぎるけど、その時の僕にとっては精一杯の虚勢だったんだと思う。
彼は、それからもずっと真剣に音楽をやり続けていて、さらに素晴らしいミュージシャンになっている。

彼の活動を逐一追っている訳ではないけれど、たまに思い出したように近況を調べたりしてしまうのは、いつか彼とまた会いたいと思っているからなのかな。向こうは僕のことなんて覚えてないかもしれないけど。

そんな彼は今、音楽活動を少し休んでいて、ラオスでボランティア活動をしているというようなことがFacebookのページで書かれていた。

とても知的で美しい文章を書いていた。
多くの本を読み、音楽を聞いて、旅をして、人との出会いを繰り返してきた、そういうことが感じとれた。

そして、奇しくも僕がいま考えているようなことを、彼はラオスで見つけていた。
本当の豊かさについてのこと。僕は本で読んだだけですが、彼は実体験として肌で感じて、その文章を紡ぎ出していた。素晴らしい感性。

彼はいま26歳。僕が彼に出会った年だ。
とても今、彼と話したいな、と、思う。

僕はいま36歳。
もっと若い頃に気付けていたら・・、もっとたくさんの本を読んだり、旅をしたり・・、みたいなことはよく思ってしまうけれど、過ぎた時間は戻らない。
でも、いくつになっても関係ないと、最近は思う。
開き直っているだけかもしれないけど、クソみたいなプライドなんてどうでもよくて、気付けることは素晴らしいし、少しずつでも人間として成長していきたいと思っている。

彼はFacebookのある記事の結びの文章でこう書いていた。
“成長とは自らの価値観が「否定」から「肯定」に変わっていくプロセス。もっともっと成長したい” と。
2017.11.11 / Top↑
映画『君の名は』を遅ればせながら見ました。
ストーリーとか全然知らずに見たので、なんか「思てたんとちゃーう」て、なりました。いい意味で。
見る前に得ていた情報は、この映画をみた、ある2人の証言のみ。
N村Y気氏「きゅんきゅんした!」
A山Tオ氏「ラッドウィンプスのPVやで、あれ」
というもの。

なので、このストーリーにはかなり面食らいました。
端的にいえば、おもしろかった。DQNな感想ですけど。ツッコミどころはある感じやけど、それは言わんでええやつなんでしょうね。

しかし、タ○オ氏の“RADWIMPSのPV”というのは言い得て妙だなぁと思いました。

以下、RADWIMPSに関するどうでもいい話。

RADWIMPSがデビューした頃、僕は25歳くらいで、その時彼らの楽曲を聴いたとき、生理的に受け付けない感じがした。
なんかとっちらかった音楽性と、歌詞の気持ち悪さがそうさせたのか、当時(今もやけど、今以上に)大して音楽のことを知らなかった癖に毛嫌いをしていた。でも、聞かず嫌いはダメだと思って、曲はちゃんと聞いてみたりした。
その時に思ったのは、「彼らの曲は10年後、とても聞けたもんじゃない」みたいなことをエラそうにも思った。

“ずっと色褪せずに残っていく音楽が素晴らしい”のか、どうなのかな。
例えば、RADWIMPSの音楽をリアルタイムで高校生の時に聞いていた人は、10年後に“懐メロ”の気持ち以外で聞けるだろうか、新たな発見とかあるだろうか。

僕はオザケンが好きで、彼の曲は高校時代にこれでもかっちゅう程聞いていた。フリッパーズギターも含め。でも、今聞いても、まだ新しい発見とか、歌詞の奥深さを知ったりできたりする。
RADWIMPSの音楽にそれはあるのだろうか。
そもそも、それが“ある”のがいい音楽なのか。

その答えみたいなものをこないだ『ぼくらの時代』という番組に出ていたRADWIMPSの野田洋次郎氏が言っていた、と、僕は勝手に腑に落ちた。

彼は音楽を作ることに対して、とても刹那的なのだ。
10年後に聞いてくれることなんて、これっぽっちも考えていない。ポジティブな意味で。
「その時代に僕の作った音楽を聞く人がいて、何年後かには自分も作る音楽は変わるし、その時にそれを聞く人がいるだけのこと」みたいなことを言ってた。かなりうろ覚えですが。

なるほど。と。

その時、その時代があって、その瞬間にそれを受け取る人がいる。そういうこともまたひとつの音楽のかたちなんだ、と思ったりしました。

“刹那的”と言えば、キングオブコント2017の、にゃんこスター。これはかなり衝撃的で刹那的だった。
僕は昔から、かまいたちが凄く好きなので、優勝は素直に嬉しかった。
音楽もお笑いも、色々な人がいるから面白い。ということ。

そして、野田洋次郎氏は、かまいたちの大ファンらしい。それもまた興味深い。

オザケンは、ベスト的(アルバム未収録集)なアルバムに“刹那”というタイトルをつけた。
「この街の大衆音楽であることを誇りに思います」とも言った。

とかなんとか。
2017.11.08 / Top↑