得意ではないのに好きだからやる。
「下手の横好き」

段々とうまくなったり、理解したりしてくる。
「好きこそ物の上手なれ」

もうかれこれ15年くらいの付き合いになる友人のミュージシャンがいる。出会った頃から考えると、ほんとに歌が上手になったなぁと思う。はじめ奴は2人組で、当時流行っていたアコギの路上系の曲とかをやっていたのだが、ユニゾンで歌っているのに、ハモリに聞こえるという奇跡の音程の持ち主だった。

音程がとれない、所謂“音痴”は訓練でなおるらしいけど、彼は誰かに教わったとかではなく、少しずつ少しずつ独学で上手くなっていった。その過程をずっとみてきた。それはなんだかおもしろくて僕には楽しいことだった。

昔、ある芸人さんが著書で「“好き”ってだけで、芸人やられたら迷惑や!」みたいなことを書いていた(かなりうろ覚え)のを思い出す。
音楽とお笑いは似てて、くだらんもん(これもその人個人の主観にすぎない)が蔓延るから、ほんとにいいものが日の目をみない。みたいなことは一理あると思うけど、これもまた時代との絡みとか、必要悪とか、そのバランスとか、そういうことを言い出したら、なにが正しいかなんてわからんけど。

たぶん真剣に(といってもこの“真剣”のラインも難しいとは思いますが)お笑いや音楽、その他の芸術に取り組んでる人は、同じ分野でやってる浅薄な奴らが評価されるとムカついたりする、ということが往々にしてあることだと思う(本人はムカついてない場合も多くて、本人のまわりの支持者たちが腹をたてていることが多い気もする)。

藤子・F・不二雄先生が作中のキャラクターに言わせたセリフで
「心血注いでも駄作は駄作、鼻歌混じりで描いても傑作は傑作」
というのがあったりする。
でも、F先生本人は病に侵されながらもずっと漫画を描き続けて、描きながら絶命したような人だ。

中島らもさんのエッセイで、“人間なんぞ、なるようにしかなってきてないから、おれは後悔なんかしたことがないし、これからもしない、でもそれは努力をしなくていいということではなくて、努力はしようと思ってするもんではなく、するときはする、でもそれはやってる時には気付かなくて、あとから振り返るとそれが「努力」やったと気付くものだ” みたいなことを言っていた。

僕は別に楽をして生きる人がいてもいいと思ってる。
でも、搾取してる人は嫌やなぁとは思ったりもします。
(まぁ、そもそも楽をするには搾取は必要かもとか、“楽をする”の定義も曖昧なんですけど。)
それはさておき、そういう人の多くが“楽をするにはどうしたらいいか”を割と考えているかもしれないし、楽をしてる自分がいやになったらなったで、“努力”を選択する人がいてもいいし。
“努力”というものが何なのかはわからないけど、それをやっている時の自分はおそらく気持ちいいし、充実していると思う。やってるときは気付けないかもしれない、というのは前述の中島らもさんのいう通りです。
“努力”できる人はやったらいいし、できない(しない)人もいるんだと許容する世の中がいいなぁとか思います。

世渡り上手。正直者がバカをみる。とか、そういうこともある。

宇宙の中での良いこと。優しさ。本当の優しさ。自分がされて嬉しいことは、他人も同じとは限らない。偽善。

なにが自分にとって幸せなのか、誰かの幸せはどういうことなのか。
ゴッホは生きているときに絵が一枚しか売れなかった(これは諸説あるらしい)けど、ゴーギャンと共同生活とかしてて、ちゃんとその才能を認められながら生きることができていた、とかそういう話を前に友人としたことがある。

僕らのいる音楽の現場もある意味ではそんなところがあるように思う。同じような感覚で何かを考え作り鳴らす人たちがいて、出会いわかりあえる。その嬉しさ。美しさ。
でも、僕はそれに達していないと感じたり、才能なんてこれっぽっちもないとか思う時もある。
無知でクソな自分を嘆く。あたまよくない。理解力もない。感受性もない。芸術の素晴らしさなんてわかりっこない。とか、ネガティヴな夜とかは特にそんなことを考えてしまう。

でもわかりたい。誰かと分かち合いたい。
そのためにやるべきことはあるのだと思う。

それが“努力”かどうかはわからないけど。


ほんとに雑記。失礼しました。
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2017.04.25 / Top↑
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