先日、家族4人揃って映画を見てきました。
昭和町のとある店舗のスペースを使っての上映会で、小さい子もOKということで。

『ある精肉店のはなし』という作品。
監督は、纐纈(はなぶさ)あや さん。
『祝(ほうり)の島』という、山口県祝島の島民たちの原発建設反対のたたかいを描いたドキュメンタリー作品も作られている方。こちらはまだ見たことがないのですが、気になっていた作品。また機会を作って見ようと思っています。

さて、精肉店のはなし。
江戸時代から145年。7代にわたり、牛の屠畜を生業としてきた一家のドキュメンタリー。
自分たちで牛を育て、それを屠畜し、精肉して、自分たちで売る。全ての行程をやっている、今となっては大変珍しいやり方をしていた北出精肉店のすがたを描いています。

まず、北出精肉店が貝塚市ということで、かなり親近感がありました。北出一家の雰囲気とか、泉州弁とか、自分の地元のあるあるな感じで。

屠畜のシーンは、予想していたよりも衝撃的でした。手塩にかけて育ててきた牛を、まずハンマーのようなもので額らへんをど突いて失神させます(このとき牛には目隠しをしている)、そして頸動脈を切って絶命させ、皮を剥ぎ、解体していく。

映画終了後に、この屠畜の取材をした作家の方のお話も聞けました。
北出さんのこの屠畜のやり方は、かなり原始的なやり方だそうなのですが、現在の屠畜の方法も、“牛を失神させて頸動脈を切る”という基本的なことは変わっていないそうです。それを行う道具などは、効率化されているようですが、牛が一撃で失神しなかったり、現在作業をされている方(そちらも取材されたそうです)も、時々命の危険を感じることがある、と仰っていたそうです。

スーパーや精肉店に並んでいるお肉がそういう行程を経て、僕らの食卓に並んでいることを、大人になればなんとなくわかっていたように思っていたけど、目の当たりにした(映像ではありますが)光景はやはり強烈で、否応無しに“食”について考えさせられた。月並な意見ですけど。

その作家さんは、その屠畜を見た直後は牛肉を食べられへんと一瞬思ったらしいですが、昼ごはんにステーキをガツガツたいらげたそうです。
人によって違うかもしれないけど、そういうものなのでしょう。

映画で印象に残ったのは、北出さんが「この仕事に誇りをもつとか、特殊な仕事とか、そういうことは思わない。普通の仕事なんです」と言っていたこと。
その言葉は、以下の話に繋がります。

屠畜・精肉という話になると、やはり“部落”というキーワードにぶち当たる。
映画の中でも、もちろんのこと語られています。

自分の住んでいた泉佐野市にも“被差別部落”と呼ばれていた地域があり、小学生の頃から所謂“同和教育”がさかんに行われていた。
祖父母世代は、“その地区の子と遊ぶ” というと、ハッキリとは言わないけど、あまりいい顔はしていなかったように思う。差別的な気持ちはあったのかなかったのか、今となってはわからないけど、昔からの擦り込みもあったのだろうな。
親世代、僕らの世代となるにつれ、そういう感覚は薄れつつあるとは思うけど、完全になくなっているとは思えない気もする。

実家にあった『やさしい部落の歴史』という本を久々にひっぱり出して読んでみた。1969年の本。50年近く前なのか。

これを読むと、部落差別の構造がよくわかる。
ひとつ言えるのは、支配者や権力者がある層の民衆たちの矛先が自分たちに向かないように、身近な存在としての差別対象を作るということ。
これはいつの世も行われてきたことで、部落の人たちはその支配の道具として利用されていたに過ぎない。

本文より
“同じ人間の中に、支配する人と、支配され搾取される人の別が生じ、支配する人たちが自分たちの支配をゆるぎないものにするために、身分の差別をつくったのです。そして高い身分のものは、苦しい肉体労働をせず、支配されているもののみが、労働を強制されました。ここから人を支配する仕事、精神的な仕事は「尊い」、肉体労働は「いやしい」という考え方が作られたのです。やがて肉体労働のなかでも、とくに苦しい、あるいは不快な仕事は、だんだんと一番低い身分のものにおしつけられていくようになり、ついに一定の仕事と一定の身分がむすびつけられて、「いやしい人」のする仕事が「いやしい職業」と考えられるようになったのでした。だから「いやしい職業」がまずあって賎民ができたのではなく、人間に尊い人間といやしい人間の差別をつくり、いやしい人間のすることが、すべていやしいと考えさせられていったのです。考え方がまったく逆立ちしていることがわかるでしょう”

ちょっと長くなりましたが。
これを読むと、差別は形を変えていつの世も民衆の中に紛れこんでいるんだなぁと思う。
でも、それに気づく人たちもいつもいるのだ。
中江兆民とか、植木枝盛とか、すごいな。
安藤昌益は(怒られるかもしれんけど)、ちょっとポルポトっぽくて危険な感じに思ったけど。

今の世も、建前としては“奴隷”っていないようなことになってるけど、実際はそうではないことはなんとなく誰もが感じていると思います。
宮台真司氏のいう“野放図なグローバル化”はアカンと僕も思う。

話がだいぶ逸れてきたので、この辺のことはまた別の機会に。

なんというか、矛先を間違えたらダメなんよなぁ。
声をあげる人がいたから、今の僕らがいる。この先もそうなのだ、ということを忘れずにいたい。

映画はとてもよかったので、興味がある方は是非。
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2017.10.13 / Top↑
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